iso14001環境ISO生命に満ちた青い地球を守ろう

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アジアの歴史




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    徹底検証!「従軍慰安婦」問題は朝日新聞の捏造から始まった 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史6

    Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution

    従軍慰安婦に関する米軍調査報告:戦場売春婦の実態調査結果ビルマ

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    「文玉珠さん」という(自称)従軍慰安婦女性は、平成4年に日本の郵便局を訪れ 2万6145円(当時の金額)の預金返還の訴訟を起こしています 環境ISO,iso14001汚染の予防、歴史 7



    ヒラリーの私用メールが暴いた外務省の赤っ恥 国益の毀損と責任感の欠如がもはや伝統に

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    神風特攻隊が残した戦果は、実はすごかった。

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    フーバー大統領の回想録 には、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な記録が含まれている。
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    来る2月6日の芸術委員会でその慰安婦碑の設置が承認されようとしています。
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    “カナダ有志の会”よりお願い
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    カナダ・オンタリオ州の立法議会が南京大虐殺記念日の制定を審議中です。
    ↓ Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day ↓
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    抗議のメールを、オンタリオ立法議会メンバーに送っていただけましたら幸いです。

    南京大虐殺は捏造だった証拠集

    韓国、韓国人慰安婦をドラム缶に入れて米軍らに供給、政府が米軍向けに売春管理



    国連も一蹴した中国の政治宣伝 自民党が明らかにした南京の捏造





    やはり あの戦争は、アジア開放のための聖戦だった



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    南京事件について中国胡錦涛国家主席への公開質問状
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    http://www.sdh-fact.com/CL02_3/19_S1.pdf

    胡錦濤国家主席閣下への公開質問状 このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の 友好を願う者として心より歓迎申し上げます。



    反日種族主義




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    大東亜戦争敗戦時アジア諸国の首脳発言


    太平洋戦争におけるわが国の戦争被害

    「世界から恐れられた7人の日本人」





    「大東亜戦争の英雄の日本人1」


    「大東亜戦争の英雄の日本人2」


    「大東亜戦争の英雄の日本人6」


    「大東亜戦争の英雄の日本人3」空の要塞B29撃破とB29撃墜王


    「大東亜戦争の英雄の日本人4」陸軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争の英雄の日本人5」海軍エースパイロット撃墜数


    「大東亜戦争技術者」


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    日米開戦前日米交渉(アメリカが日本に実質的最後通牒(日本の南部仏印撤退などの譲歩案に))


    「大東亜戦争技術者」



    大東亜戦争技術者

    1.堀越二郎
    は、日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任として有名。1万機以上が製作された



    2. 小山悌(こやま やすし、
    1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、 大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。。



    3.土井武夫
    飛燕   三式戦一型(キ61-I) 1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した[5][23]。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された[24]。設計は両機ともに土井武夫が担当した。






    4. 一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )
    は大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。英戦艦プリンス・オブ・ウエールズ等を撃沈した。航空機が史上初めて行動中の戦艦を撃沈。大艦巨砲時代の幕を引いた。



    5.潜水空母
    伊四百型潜水艦[1](いよんひゃくがたせんすいかん)は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。特殊攻撃機「晴嵐」3機を搭載し、「潜水空母」とも俗称される。別名潜特型(せんとくがた)とも呼ばれる。米国東海岸ニューヨーク爆撃を目標とした。 3機の特殊攻撃機『晴嵐』が搭載可能であり、潜水空母(せんすいくうぼ)とも 。



    6. 晴嵐「潜水空母」搭載機 狭い潜水艦から発進する爆撃機。


    1.堀越二郎は、日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任として有名

    2. 小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、 大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。

    3. 飛燕   三式戦一型(キ61-I) 1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した[5][23]。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された[24]。設計は両機ともに土井武夫が担当した。

    4. 一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日本帝国海軍の陸上攻撃機であ



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    明治・大正・昭和風立ちぬ 堀越二郎 ゼロ戦の設計者

    風立ちぬ 堀越二郎 ゼロ戦の設計者

    明治・大正・昭和太平洋戦争コメントを書く

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    堀越二郎は、日本の航空機技術者で零式艦上戦闘機の設計主任として有名。

    1903年6月22日生まれで群馬県藤岡市出身。1903年と言えば、ライト兄弟の飛行機が初めて空を飛んだ年だ。 藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科と進学し、それぞれ「首席」で卒業している。 就職は、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。 三菱は支度金四百圓(現在の約100万円相当)を堀越二郎に渡し、航空機の最先端技術を学ばせるため、彼をヨーロッパ、アメリカにと1年半派遣した。

    大変几帳面な性格だったようで、自分が乗った客船の食堂のメニューを集めて保管しておく、領収証も一枚一枚保存、布団を敷くときには必ず部屋の壁と平行になるように敷くなど、と言ったエピソードがある。

    日本に戻った堀越二郎は、その優秀な設計者ゆえ、この時代には最新の技術が必要とされる「戦闘機」の開発に携わることになった。 日本の航空機はそれまで外国機のコピーと言った感じだったが、時代がそのように堀越二郎を必要としたのであろう。 この当時の日本はどうしてもエンジン出力が弱い。その欠点を、堀越二郎らの航空機設計技術により補ったと言えよう。

    堀越二郎が設計主務者として担当した最初の設計機は「7試艦上戦闘機」で進歩的な低翼単葉を採用したが、ライバルの中島飛行機設計機ともども、正式採用はされなかった。  その後、1935年(昭和10年)に完成した試作機「9試戦闘機」は上昇力など戦闘機に不可欠なもののみに重点をおき、試作1号機は逆ガル型の主翼を設計した。

    堀越二郎によるこの9試の設計が基礎となり、のちの三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて日本独自の革新的な設計が施され、日本海軍初の全金属単葉戦闘機が誕生したのだ。 日本はエンジン性能が低いと言う欠点があるなか、その欠点を機体設計で補い、96式艦上戦闘機は固定脚機としては驚異的なスピードである最高速度400km/時を超え、当時の世界水準を超える優秀な戦闘機となった。

    しかし、96式艦上戦闘機は航続距離が1200kmと短く、中国内陸部での作戦に支障が出た為、日本海軍は、速度500km以上、高い航続距離、20mm機関砲の重装備と言った厳しい性能を要求した新機種開発に着手。 三菱のライバルだった、中島飛行機は途中で開発を断念するくらい厳しい条件だったが、三菱の堀越二郎技師は3000枚に及ぶ設計図をチェックし、設計主務者として開発に取り組んだ。

    その結果、航続距離2222km、最高速度533kmと高い運動性能、20mm機関砲2門の重武装を持ち、太平洋戦争の緒戦では無敵とも言える活躍し、述べ10000機が生産された「零式艦上戦闘機(A6M2b)」が、堀越二郎の手により誕生した。 ちなみに、ゼロ戦の半数以上は、中島飛行機でライセンス生産されている。 このように、堀越二郎は日本の航空機水準を世界一にまで高めた優秀な設計者だ。

    堀越二郎は大学での成績がよかったので、三菱内燃機製造株式会社(現・三菱重工)から声がかかったとの事。 あまり知られてないが、当時、三菱は恐慌の影響で業績が悪く、帝大出の優秀な人材を獲得、育成して挽回を図ろうとし、それが堀越を成長させた。 堀越二郎の最も強いこだわりは、機体の美しさと機能を両立させることだ。堀越二郎が考案した、ねじり下げ、沈頭鋲といった技術は、現在でも世界のほとんどの航空機で採用されている。 堀越二郎が(三菱のライバルである)中島飛行機に入っていたら、ゼロ戦は生まれなかっただろう とまで言われている。

    ゼロ戦は防御面が欠点だと言う事実は良く知られるが、設計段階で防御面は海軍からも要求はなく、徹底した軽量化により高い旋回性能を持つ事で敵機の攻撃を回避できると言う考えから、機体が重くなる防弾装備は当初不要との判断だった。

    実際問題、日本はエンジン出力が低く、スピードを上げるには機体を軽くするしかなかった。その反面、アメリカは優秀なエンジンを開発し、ゼロ戦よりスピードが速い戦闘機をアメリカが持つ事で、ゼロ戦の優位性が崩れたのだ。

    雷電、烈風と続けて設計を手掛け、疎開先の長野県松本市でも開発を目指したというが終戦。

    戦後は木村秀政らとともにYS-11の設計に参加した。

    三菱重工業は戦後分割されたため、それにともない発足した中日本重工業(のちの新三菱重工業)に勤務。 新三菱重工業では参与を務めた。 新三菱重工業を退社した後は、教育・研究機関で教鞭を執った。

    1963年〜1965年にかけて、東京大学の宇宙航空研究所(現、宇宙航空研究開発機構=JAXAを構成する宇宙科学研究所)にて講師を務めた。

    1965年「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究 :昇降だ操縦系統の剛性低下方式」と操縦装置の基本理論で東大工学博士。 1965年〜1969年には防衛大学校教授。 1972年〜1973年は、日本大学生産工学部教授。 1982年1月11日死去。享年78。



    小山悌(こやま やすし、1900年(明治33年) - 1982年(昭和57年)8月25日)は、日本の航空機・林業機器技術者、実業家。第二次世界大戦中は中島飛行機技師長・取締役、中島飛行機三鷹研究所長・黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)、戦後は岩手富士産業(中島の後身富士重工業系、現・イワフジ工業)取締役。

    大日本帝国陸軍(陸軍航空部隊)の九七式戦闘機・一式戦闘機「隼」・二式戦闘機「鍾馗」・四式戦闘機「疾風」の設計主務者であり、戦前日本を代表する航空機技術者であった。

    概要

    九一戦

    四式戦「疾風」

    第二高等学校を経て、1922年(大正11年)4月に東北帝国大学工学部機械科進学。卒業後は理学部助手を務め、1925年(大正14年)12月に一年志願兵(学歴と財力を持つ者を対象に短期間の現役期間の後に予備役幹部に登用する制度、のちの幹部候補生制度)として帝国陸軍の電信部隊(在中野)に入営する[1]。

    なお、当初小山は航空機設計に対し興味は特に無かったが、一年志願兵時代に休日外出で訪れる叔父宅(在蒲田)にて、中島飛行機創業者・中島知久平と海軍機関学校同期であった叔父の度重なる勧めを受けて満期除隊後の中島入社を決意している[2]。

    1926年(昭和元年)12月28日、25歳の小山は中島飛行機製作所(のち中島飛行機株式会社)に入社。航空先進国であるフランスの航空機産業に学んでいた当時の日本航空機産業(およびフランス陸軍航空部隊(フランス空軍)を師としている日本軍航空部隊)にとって、

    学生時代よりフランス語に堪能であった小山の存在は貴重なものであり、ニューポールやブレゲーの資料を翻訳する傍ら設計技術を磨いた。その様な状況で翌1927年(昭和2年)4月、早くも小山は当時の甲式四型戦闘機に代わる陸軍次期主力戦闘機の開発に関与する[3]。ニューポールの招聘技師アンドレ・マリーを設計主務者(および助手ロバン)に、小山と同僚の大和田繁次郎[4]が補助して設計された試作機・中島NCは、三菱重工業のIMF2「隼」や川崎航空機のKDA-3を抑え陸軍に採用、1931年(昭和6年)12月に九一式戦闘機として制式制定された。

    こののち、航空機設計の才能を開花させた小山は陸軍機を中心に数々の機体開発に携わり、特に1936年(昭和11年)に全金属製低翼単葉戦闘機である九七式戦闘機(キ27)を、1937年(昭和12年)末以降には著名な一式戦闘機「隼」(キ43)、重単座戦闘機たる二式戦闘機「鍾馗」、さらに太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)末以降はそれらの集大成として、「日本軍最優秀戦闘機」と謳われる四式戦闘機「疾風」(キ84)の開発を設計主務者として手がけた。なお、小山は機体設計部門における中島の重鎮であるためこの他多数の機体にも関係している。

    敗戦を工場疎開先の中島飛行機黒沢尻製作所長(第1軍需工廠第21製造廠長)として迎えた小山は、軍用機開発の要職にあったことから公職追放にかかり林業機器の技術者となる。1952年(昭和27年)に追放解除となると、旧中島飛行機の後身である富士産業(富士重工業の前身)系である岩手富士産業(旧・中島飛行機黒沢尻製作所、現・イワフジ工業)の取締役に就任。しかし、小山は他多数の航空機技術者と異なり戦後の航空機産業に復職することや、自動車産業・鉄道産業に移ることは拒み続け、以降1974年(昭和49年)に引退するまで20年以上に渡り岩手富士産業にて林業機器の技術者として過ごした。このことに関して小山は「日本の国力回復の基は、まず山林の開発であると思ったのです。また、私自身、そうした仕事が好きだったここともあるのでしょうが……」と語っている[5]。1962年(昭和37年)には林業関係の東京大学学位論文で「農学」博士[6]。

    さらに小山はその責任から戦後は多くを語ることは無く、メディアへの露出も極めて少なく[7]回顧録なども残さなかった。そのため、小山は国産機創成期の九一戦から一式戦「隼」を経た集大成たる四式戦「疾風」に深く携わった、戦前日本の航空機産業を代表する大物でありながら、戦後の知名度は航空機産業に復職しメディアへの露出も積極的に行い己の業績を誇っていた三菱の堀越二郎(零式艦上戦闘機等の設計主務者)、川崎の土井武夫(三式戦闘機「飛燕」等の設計主務者)等と異なり極めて低い。



    三式戦闘機

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    川崎 キ61 三式戦闘機「飛燕」

    台湾・松山飛行場駐屯の第37教育飛行隊所属の 三式戦一型甲(キ61-I甲、1944年3月撮影) 台湾・松山飛行場駐屯の第37教育飛行隊所属の 三式戦一型甲(キ61-I甲、1944年3月撮影)

    用途:戦闘機 分類:戦闘機

    設計者:土井武夫

    製造者:川崎航空機

    運用者:大日本帝国の旗 大日本帝国(陸軍) 初飛行:1941年12月

    生産数:1,919- 生産開始:1942年 運用状況:退役 表示

    三式戦闘機(さんしきせんとうき)「飛燕」(ひえん)は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機である。開発・製造は川崎航空機により行われた。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である[1]。

    当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機であり、ドイツの液冷航空エンジンDB601を国産化したハ40を搭載した。防弾装備のない試作機は最高速度590km/hを発揮した。主翼より後部の機体下部にラジエーター・ダクトを搭載し、機体の空気抵抗低下と冷却効率の両立を図った[2]。

    また基礎工業力の低かった当時の日本にとって不慣れな液冷エンジンハ40は生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。ハ40の性能向上型であるハ140のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機しかエンジンが搭載できず、工場内に首無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。

    この事態に対処するために星型空冷エンジンハ112-IIを急遽搭載した五式戦闘機[* 1]が生産された。

    概要

    開発の経緯と機体内部構造 「DB 601」、「ハ40」、および「キ60」も参照

    三式戦一型(キ61-I)

    1940年2月、陸軍は川崎に対し、ハ40を使用した重戦闘機キ60と軽戦闘機キ61の試作を指示した[5][23]。キ60の設計は1940年2月から、キ61の設計は12月から開始された[24]。設計は両機ともに土井武夫が担当した。キ60はBf109Eと互角以上の性能を示したものの[* 2]、他に合同試験された二式単座戦闘機の方が有望であり、なによりキ61の方が良好な性能を発揮していたため、制式化は見送られている。

    キ61の設計コンセプトは、「航空兵器研究方針」における重戦・軽戦のカテゴリにこだわらない万能戦闘機で、「中戦(中戦闘機)」とも呼ばれた。当時の陸軍は、軽単座戦闘機に旋回力と上昇力を求め、さらに12.7mm機関砲の搭載も要求したことから、必然的に陸軍内の議論が発生したともされる[26]。副主任の大和田が「戦闘機は総合性能で敵に勝っておらねばならず、軽戦・重戦で分けるのは不合理だ」と語り、またこれが川崎の開発チーム共通の理念であったともしている[27]。そもそも開発チームが「中戦」と呼んでいたとする文献もある[28]など、川崎側が発祥であるともされる。

    土井自身は陸軍の「軽戦闘機」思想にこだわらず、キ61を理想的な戦闘機にまとめあげようとしたと語っている[29][7][28]。またこの考えの裏には、かつて土井が設計を担当し、高速性を追求した軽戦闘機キ28が、1939年の競争試作で旋回性が劣るとしてキ27(九七式戦闘機)に敗れた経緯も影響したと指摘する説もある[30]。土井は自信作であったキ28について「当時の陸軍が一撃離脱戦法を知っていれば」と述べている[31][* 3]また、その反動からか、一度は95式戦闘機の改良版とも言える降着装置を引き込み式とし最大速度480km/hに達する高速の複葉機を計画したこともあった[30]。しかしこれはその後廃案になり、「三式戦闘機」案に変更されている。1940年9月頃には細部設計が開始された[28]。なお開発初期の1940年5月頃に、土井はこの時期からキ61を空冷エンジン搭載機とする可能性に言及したとする文献もある[33]。

    木型審査は1941年6月に行われ[34]、試作機は1941年12月に完成し初飛行を行った[35]。キ61はキ60と同系統のエンジンを使用しており、陸軍側もあまり期待していなかったとする資料もあるが[36]、この審査ではキ60やBf109Eの速度を30km/h上回る590km/hを発揮した。これは設計者の土井すらも全く予想外の高性能だった[7][37]。なおこの時期の陸軍戦闘機は、軽戦闘機である一式戦闘機は495km/h乃至515km/h[38]、重戦闘機である二式単座戦闘機(制式採用前)でも580km/hの最高速度しかもたなかった[39]。このため1942年10月には毎日航空賞が、1943年12月には陸軍技術有功賞が、土井と大和田に贈られた[* 4]。

    エンジン

    1936年、ドイツで液冷1000馬力級航空エンジン、DB601が開発・生産された。これは過給器に流体継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用するなど先進的な機構を備えたエンジンであった[41]。日本陸海軍はこのエンジンに興味を示し、海軍側は愛知時計電機(のちに愛知航空機と呼ばれる企業)が、また1939年1月には川崎航空機が、各々50万円でライセンスを購入し、日本国内での生産を行うこととなった[41]







    一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )

    は大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。略称は一式陸攻(いっしき / いちしきりくこう、- りっこう)。日本海軍の呼び名は中型攻撃機の略の、中攻。連合国側のコードネームは「Betty」(ベティー)。(Betty bomberが、一式陸攻の米軍側の名称)三菱重工業株式会社(改称前は三菱内燃機株式会社)の設計・製造。日中戦争・太平洋戦争で日本海軍の主力攻撃機として使用された。

    特徴

    本土上空を飛行する一式陸攻。

    大直径の胴体内部に爆弾や魚雷を搭載し、胴体下の機体外部に搭載していた九六式陸攻よりも攻撃時の空気抵抗を大きく削減した。エンジンは大馬力の火星を装備した。主翼内をインテグラルタンクとし、4,000km以上に達する大航続力を得た。空気力学的洗練により、大型双発機としては軽快な運動性を得た。尾部に20mm旋回機銃を装備するなど、九六式に比べて防御火器を充実しているが、搭乗員や燃料タンクの防護は不十分だった。

    機体設計

    搭乗員

    通常7人〜8人乗り。主操縦員、副操縦員、搭乗整備員、射爆員、主偵察員、副偵察員、電信員。機長は主偵察員。必要に応じて編隊指揮官が搭乗する。それぞれが機銃や電信などを兼任することができた。

    第一回一式陸攻打ち合わせ会で、本庄季郎技師(三菱)から「防備が不十分。小型で航続距離求めれば燃料タンクに被弾しやすいため、四発機にして搭載量、空力性能、兵儀装要求を満たし増えた二発馬力で防弾鋼板と燃料タンクの防弾、消火装置を備える」と提案があったものの、和田操(航空技術廠長)から「用兵については軍が決める。三菱は黙って軍の仕様通り作ればいい」と議論なく棄却された[16]。

    1939年10月、一号機が完成[17]。初飛行は1939年(昭和14年)10月23日、パイロットは志摩勝三。1941年(昭和16年)4月1日、「一式陸上攻撃機」として制式採用された[18]。 このG4M1爆撃機が量産に入る以前に、重護衛戦闘機型を制作することが試みられた[19]。この爆撃機の量産は1940年に開始され、量産1号機は1941年4月に生産ラインを離れた。

    太平洋戦争開時、九六式陸攻と協同して台湾からフィリピンのアメリカ陸軍航空基地を攻撃し、B-17爆撃機を含む爆撃機兵力を壊滅させている。また、やはり九六式陸攻と協同して、マレー沖でイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈する(マレー沖海戦)など、太平洋戦争初期に活躍した。





    情勢の変化に適応できた特殊潜航艇(甲標的) −攻撃兵器から防御兵器へ−

    中 村 秀 樹

    http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200503/05.pdf

    はじめに

    あては外れるものである。日本海軍が米海軍に対抗し得るはずだった唯一絶対の漸減邀 撃艦隊決戦構想は、日本海軍自らが実証した航空兵力の優越性によって崩壊した。 ハワイ、マレー沖で航空機の優位を見ても、戦艦中心の考えの抜けきらなかった日本海 軍に対し1、真珠湾で太平洋艦隊の戦艦全てを撃沈破された米海軍は、やむを得ず残った空 母と潜水艦を活用した。

    それは日本海軍同様、戦前の艦隊決戦主義とは違った用法であっ たが、絶大な効果を上げ、今日空母と潜水艦が海軍の主力となる基礎となった。機に臨み 変に応じることなく、既存の用兵思想を払拭できないまま頽勢に陥った日本海軍とは対





    潜水空母、伊四百型潜水艦

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 伊400型潜水艦 I400 2.jpg 艦級概観

    艦種 一等潜水艦

    艦名 イ400、イ401、イ402

    前級 次級

    性能諸元

    排水量 基準:3,530トン 常備:5,223トン 水中:6,560トン

    全長 122m 全幅 12.0m 吃水 7.02m

    機関 艦本式22号10型ディーゼル1,925馬力4基2軸 水上:7,700馬力

    1,200馬力モーター2基 水中:2,400馬力

    速力 水上:18.7kt

    水中:6.5kt

    航続距離 水上:14ktで37,500海里

    水中:3ktで60海里

    燃料 重油:1,750トン

    乗員 157名

    兵装 40口径14cm単装砲1門 25mm3連装機銃3基 同単装1挺

    53cm魚雷発射管 艦首8門 魚雷20本

    航空機 特殊攻撃機『晴嵐』3機

    (四式一号一〇型射出機 1基)

    備考 22号電探1基、13号1基 安全潜航深度:100m

    連続行動時間:約4ヶ月

    アメリカ本土に回航されて技術調査中の伊四百潜水艦。本型は軽巡洋艦なみの14cm主砲を後部甲板に装備していた。向かって右に伊十四潜水艦、左に伊四百一潜水艦も写っている。

    M6A 晴嵐

    伊四百型潜水艦の飛行機格納筒

    格納筒の前で撮影された伊四百の士官

    伊四百型潜水艦[1](いよんひゃくがたせんすいかん)は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。特殊攻撃機「晴嵐」3機を搭載し、「潜水空母」とも俗称される。別名潜特型(せんとくがた)とも呼ばれる。なお、本型の計画縮小の補填として、巡潜甲型を改造した伊十三型潜水艦があり外形が似ている。

    概要

    3機の特殊攻撃機『晴嵐』が搭載可能であり、潜水空母(せんすいくうぼ)とも俗称される。第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大で、その全長はアメリカ海軍のガトー級を27メートル上回る。通常動力型潜水艦としては、2012年に竣工した中国人民解放軍海軍の032型潜水艦(水上排水量3,797t、水中排水量6,628t)に抜かれるまでは世界最大であった。

    理論的には、地球を1周半航行可能という長大な航続距離を誇り[2]、日本の内地から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能であった。大柄な船体(排水量3,350tは軽巡洋艦夕張と比較してなお大きい)を持つが水中性能は良好であった。急速潜航に要する時間は1分である。

    同型艦3隻が就航したが、いずれも大きな戦果をあげる前に終戦を迎え、連合国は日本の降伏までその存在を知らなかった[3]。終戦直後にアメリカ軍が接収する際、その大きさにアメリカ軍士官が驚愕したという逸話が残っている。

    伊四百、及び伊四百一はアメリカ軍による調査の後、自軍で使用することも検討していたが[2]、ソビエト政府代表からの検分の要請があった直後、ソビエトへの情報漏洩を恐れて[4]ハワイ沖で魚雷によって海没処分となった。

    処分後、その詳しい位置は記録されていなかったが、アメリカの調査家による10年来の海底調査により[2]、2005年3月に伊四百一が、2013年8月に伊四百が発見され、海上保安庁により2015年8月に伊四百二[5]が海底から発見された。

    専門家によれば、伊四百型潜水艦はそれまで対艦兵器としか見なされていなかった潜水艦の用途を一変させ、第二次大戦後の潜水艦の設計・運用姿勢に大きな影響を与えた結果、核の時代の弾道ミサイル発射能力を持った潜水艦に行き着いたという[6]。実際、戦後にアメリカ軍が浮上後の潜水艦からパルスジェットミサイルの発射実験を行った潜水艦が酷似した形をしていた[4]。

    経緯

    航空機搭載可能潜水艦

    第一次世界大戦後、日本海軍はドイツが制作した小型水上偵察機をもとに横廠式一号水上偵察機(潜水艦搭載偵察機)を開発した[7]。昭和初期、日本海軍は「潜水艦を敵艦隊監視、追揮躡触接に用いる」という用法をおおむね確立[7]。

    潜水艦への小型水偵搭載は、潜水艦の偵察能力強化(監視能力強化)につながっていた[7]。 これら航空機搭載可能潜水艦(伊号第五潜水艦、伊号第十二潜水艦など)に搭載する機体は九六式小型偵察機や零式小型水上偵察機といった、通常の潜水艦作戦における索敵用のものであった[7]。

    一方、特型潜水艦(後述)に求められたのは当初には彗星艦爆の搭載であり、それが実際的でないとされたため、特殊攻撃機晴嵐を新たに開発することになった。設計当初、晴嵐はフロートを装着せず非水上機として運用される予定だった(この場合、機体の回収は不可能になり、使い捨てとなる)。純爆撃・攻撃用途の飛行機を戦略的に運用することを計画上の主目的とした点で、従来の専用小型水偵を偵察目的として搭載した潜水艦とは、完全に一線を画している。

    開発

    太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、鈴木義尾軍令部第2部長から艦政本部に対し「新型潜水艦」について照会があった[8]。同年5月、水上攻撃機2機(昭和19年初頭、3機に改訂)・航続距離三・三万浬・連続行動可能期間四ヶ月以上という特型潜水艦の艦型が決定した[8]。この特型潜水艦が伊四百型潜水艦であり、水上攻撃機が晴嵐である[8]。後日、黒島亀人軍令部第二部長(昭和17年当時は聯合艦隊先任参謀)が藤森康男中佐(軍令部部員)に語ったところによれば、構想そのものは山本五十六(太平洋戦争前半の聯合艦隊司令長官)に依る[8]。山本はアメリカ東海岸での作戦に伊四百型を投入することを企図しており、戦史叢書「潜水艦史」では『常に、米国に直接脅威を与えるような作戦を考えていた山本長官の戦略思想からみれば、あり得ることであろう。』としている[8]。

    ミッドウェー海戦後の同年6月20日、聯合艦隊司令部(旗艦大和)において関係者の研究会がおこなわれ、従来の既定計画軍戦備を根本的に修正することになった[9]。これが改D計画である[9]。同計画では潜水艦139隻建造することになったが、この中に特型潜水艦(基準排水量3,530トン、速力19.6ノット)18隻の建造が含まれていた[10]。(設計番号はS50)。計画隻数18隻中、2隻は旗艦設備を、2隻は予備旗艦設備を持つ[8]。搭載魚雷数は、旗艦18本、通常型は22本[8]。だが、戦局の移行と共に計画は次第に縮小される。1943年(昭和18年)10月15日附の軍令部商議により、特型潜水艦(伊四百型)は5隻に減らされた[11]。最終的に3隻(伊400、伊401、伊402)が完成した[10]。

    完成

    建造計画の縮小を補うため、1隻当たりの搭載機数が3機に増加されたうえ、建造途中の甲型潜水艦を晴嵐2機搭載可能な潜水空母に改造した(伊十三型潜水艦:伊十三、伊十四)。

    伊四百型の建造目的は、元々はアメリカ本土攻撃である[2]。立案は山本五十六であり南アメリカ南端を通過してアメリカ東海岸を攻撃目標としていた[2]。スミソニアン航空宇宙博物館の近代軍用機担当学芸員ディック・ダーソは、「アメリカ東海岸を隠密裏に攻撃するよう特殊設計されており、おそらくワシントンD.C.やニューヨーク市を標的としていたものと考えられる」としている。そのため、建造要綱として33000海里の航続距離が要求された。長大な航続距離は船体の大型化に拍車をかけた[2]。当初は『晴嵐』の搭載数は2機であったが、伊四百型の建造数が当初の18隻から10隻に削減されたことより(後で更に建造数は削減された)、急遽3機に変更要請された。すでに伊400においては建造が開始されていたため、格納筒を後部へ10m延長するとともに『晴嵐』の仕様を一部変更する、格納扉にくぼみを設ける、弾薬庫と対空火器の位置を変更する、などの設計変更で3機の搭載を可能とした[2]。

    しかし、1945年5月にドイツが降伏したことで大西洋方面の英米艦隊が太平洋に移動してくることが予想されたため、攻撃目標はアメリカ東海岸からパナマ運河のゲートに変更された。運河のゲートを破壊することによってガトゥン湖の水を溢れさせようという計画であったため、『晴嵐』には魚雷の装備が要求された。伊400完成後、パナマ運河を念頭においた訓練が開始された[2]。『晴嵐』の組み立ては、飛行機に不慣れな乗員が行っていたため、3機の『晴嵐』を発射するのに当初は半日近くかかったが[2]、訓練後には15-20分程度で3機の射出が完了するようになった。しかし、その頃には既に大半の英米艦艇は太平洋に移動済みであり、今さらパナマ運河を破壊しても戦略的意義が無いということで、再び攻撃目標が変更されて最終的にはウルシー泊地への特攻計画となった(『晴嵐』を体当たり特攻機として使用し、回収しない計画)[2]。

    構造





    晴嵐

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    愛知 M6A 晴嵐

    M6A1.jpg 用途:攻撃機 分類:特殊攻撃機 設計者:尾崎紀男 製造者:愛知航空機 運用者:大日本帝国の旗 大日本帝国(日本海軍)

    初飛行:1943年 生産数:28機

    運用状況:戦闘前に終戦

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    晴嵐(せいらん)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した水上攻撃機。設計生産は愛知航空機、略符号はM6A1[1]。

    伊四百型潜水艦による戦略爆撃の目的で開発された、小型軽量の急降下爆撃が可能な潜水艦搭載用の水上攻撃機(海軍での分類は特殊攻撃機)。昭和18年(1943年)11月に初号機完成。だが1944年9月でも実験飛行の段階だった[2]。第六三一海軍航空隊(1944年12月15日編制)で運用された[3]。

    概要

    開発経緯

    第一次世界大戦以降、日本海軍は小型水上偵察機を搭載した潜水艦を建造した(潜水艦搭載偵察機)[4]。昭和初期、日本海軍は「潜水艦を敵艦隊監視、追揮躡触接に用いる」という用法をおおむね確立[4]。潜水艦への小型水偵搭載は、潜水艦の偵察能力強化(監視能力強化)につながっていた[4]。

    太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、鈴木義尾軍令部第2部長から艦政本部に対し「新型潜水艦」について照会があった[5]。同年5月、水上攻撃機2機(昭和19年初頭、3機に改訂)・航続距離三・三万浬・連続行動可能期間四ヶ月以上という「特型潜水艦」の艦型が決定した[5]。この特型潜水艦が伊四百型潜水艦であり、水上攻撃機が晴嵐である[5]。米国東海岸で作戦を意図しており、黒島亀人軍令部第2部長が語ったところによれば、構想そのものは山本五十六(当時、聯合艦隊司令長官)に依る[5]。 同年6月30日の改D計画で特型潜水艦(基準排水量3,530トン、速力19.6ノット)18隻の建造が含まれていた[6]。だが戦局の悪化にともない1943年(昭和18年)10月15日附の軍令部商議により、特型潜水艦(伊四百型)の建造隻数は5隻に減少[7]。最終的に竣工した特型(伊四百型)は3隻(伊400、伊401、伊402)だけだった[6]。 太平洋戦争後半、伊四百型に搭載する晴嵐の機数は、2機から3機に増やされた[5]。同時に、伊十三型潜水艦も搭載機を「偵察機1」から「攻撃機2」に変更することになり、改造計画を実施した[8]。

    試製晴嵐

    晴嵐は伊四百型潜水艦(のちに伊十三型潜水艦をも加える)を母艦として、浮上した潜水艦からカタパルトで射出され、戦略的な目的での攻撃に使用されるために計画された特殊攻撃機である[5]。最大速度時速474km(250ノット)・フロート投棄時560km、低翼単葉双浮舟、複座、航続距離166ノットで642浬、兵装は13mm旋回機銃1と250kg爆弾1[5]。

    「潜水空母」伊四百型潜水艦に搭載するため、愛知航空機において母艦と同時期に開発に着手され、昭和18年11月に試作第一号機が完成した。九一式魚雷改三による雷撃、または250キロ爆弾(4個まで搭載可能)、または800キロ爆弾による水平および急降下爆撃が可能であった。

    実戦における攻撃時には、エンジン出力の関係から大型爆弾の場合はフロートを装着しない仕様になっており、攻撃後は艦近くの海面に着水、又は搭乗員を落下傘降下させ乗員のみを収容する予定だった。この場合の機体の回収は無論不可能である。一方、潜水艦には予備魚雷と予備爆弾が装備され、状態によって再出撃も可能であった。ただし、唯一にして最後の出撃時は特攻が予定されていた(後述)。

    折り畳み図

    晴嵐は伊四百型の飛行機格納筒に納めるため、主翼はピン1本外すと前縁を下に90度回転して後方に(鳥が歩行時に羽を胴につけているイメージ)・水平尾翼は下方に、垂直尾翼上端は右横に折りたためる[9]。フロートは取り外されているが、機体近くに置かれており短時間で装着できるようになっている。また、暖機のかわりに、加温した潤滑油・冷却水を注入できるなどの工夫で、作業開始後約3分以内で発進可能と言われている。伊四百型は晴嵐を3機搭載でき、潜水艦搭載時には既に雷装、爆装していた[10]。ただし、飛行機格納筒の一番奥に収納された3番機は潜水艦甲板上での整備スペースが限られているため、1番機・2番機の整備および射出完了後に、発進諸準備を開始する[10]。このため2番機発進後、20分後に射出予定だった[10]。 また(1番機)3分で発艦可能と言っても、実際には搭乗員・整備士の技量による。搭乗員の淺村敦によると、最初のうちは3機発進完了まで20分以上かかっていたが、最終的には十数分に縮められたとの事。特に母艦自体が上下に動振しているため発艦のタイミングが難しく(艦首が下を向いている時に発艦すると、機体が海面に突っ込む事となる)、射出指揮官が慎重に判断した。このように発艦には危険が伴ったので、搭乗員には1回の発艦訓練につき6円の危険手当が加算された。当時の大卒の初任給は60円である。

    潜水艦搭載のための折りたたみ構造と高性能を両立させ、またその任務により世界中で(極端な話、北極や南極でも)使用を可能にするためジャイロスコープを装備するなど、非常に『凝った』造りの機体であった上に製造数も少なかったため1機あたりのコストも高く、零戦50機分に相当すると言われた。後述のとおり、本機が海軍の兵器として制式採用されたことを積極的に立証できる法令は存在しない。

    南山 試製晴嵐改 (南山)

    試製晴嵐を陸上機化した機体も製造され、これを「試製晴嵐改」[法令 1]または「南山」(M6A1-K) という名称で呼んでいた[11]。南山は高速性能に優れるかわり、滑走距離が長かったという[11]。1944年10月、南山は高橋の操縦により魚雷発射実験に成功した[12]。これにより高橋は、晴嵐が雷撃に向いた航空機であると確信したという[13]。晴嵐及び南山は合わせて28機が製造された。計画段階では36機以上生産予定だったが訓練用の機体すら確保できず、空技廠から零式小型水上機2機を借りて六三一空隊員の訓練をおこなった。搭乗員からは「オモチャみたいな飛行機で訓練するのか」と不満が出た[14]。そこで六三四空から瑞雲を借りて訓練を行った[15]。

    制式化の状況

    航空機を兵器として制式採用するかどうかについて、海軍省では法令の一つである内令兵で命名して施行し周知しているが、晴嵐と晴嵐改はいずれも「試製」の冠称がついた実験機[法令 1]としての扱いに変化が無いまま敗戦を迎えており、実施部隊の認識はともかく省としては兵器に採用する法令を施行していない。

    また、1945年(昭和20年)7月に海軍航空本部が調製した「海軍現用機性能要目表」においても、それぞれ「試製晴嵐」「試製晴嵐改」の機名が記されていたとされる[16]。

    なお、六三一空で晴嵐テストパイロットを勤めた高橋は、1944年(昭和19年)11月24日に領収(受領)飛行を行い制式採用されたと述べている[17]ほか、終戦後の第六三一海軍航空隊の武器引渡し目録には、「晴嵐一一型」8機、そのうち3機破損と記載されている[18]が、目録上の兵器名表記はいずれも海軍省が施行した内令兵に準拠したものではない。

    兵器が制式採用前に実施部隊へ引き渡され運用されるのは二式艦上偵察機[法令 2]、雷電[法令 3]、桜花[法令 4]らの例もあり、晴嵐や晴嵐改が特殊なわけではない。

    要目(M6A1)

    Aichi M6A1 Seiran 3-view line drawing.svg

    乗員: 2名

    双フロート式 全長: 10.64 m 全幅: 12.26 m 全高: 4.58 m 主翼面積: 27.0m2 動力: アツタ32型 水冷V12エンジン 出力: 1,400 HP 全備重量: 4,250 kg 最大速度: 474 km/h(フロート未装着時560km/h) 航続距離: 1,540 km 実用上昇限度: 9,640 m 上昇率: 5,000/8'00"

    武装: 機関銃 13.0mm旋回機銃×1/800kg爆弾×1(250kg爆弾は4発まで)。または45cm魚雷×1

    運用

    晴嵐の航空隊は、1944年(昭和19年)12月15日に第六三一海軍航空隊(第六艦隊附属)として開設された[19][20]。さらに、晴嵐は伊号第四百潜水艦(定数3機)、伊号第四百一潜水艦(定数3機)、伊号第十三潜水艦(定数2機)、伊号第十四潜水艦(定数2機)を中核とする第一潜水隊(有泉龍之助大佐)に配備された[21][22]。 有泉大佐は第六三一海軍航空隊司令を兼ねる[21]。潜水艦航空機運用の経験があるのは高橋少尉と鷹野末夫少尉のみで[21]、潜水艦の艦長歴が長い有泉司令は航空戦の経験がなく、福永飛行長は航空・潜水双方の実戦経歴がなく、浅村分隊長は潜水艦経験がなく、山本分隊長は実戦経験がなく、隊の錬度には問題があった[23]。さらに晴嵐の製造メーカーである愛知航空機製作所は、東南海地震、三河地震、B-29による空襲被害で甚大な被害を受けており、晴嵐の定数補充は困難であった[24]。2月の時点で、第631空の戦力は晴嵐6機、瑞雲5機でしかない[25]。

    1945年1月、有泉司令は魚雷によるパナマ運河攻撃の研究を命じた[26]。3月下旬から4月上旬にかけて、作戦の検討が進む[27]。呉潜水艦基地隊で、軍令部、第六艦隊参謀を交えた図上演習を実施[27]。4月25日、士官に対し第一潜水戦隊全艦・晴嵐10機(雷撃2、爆撃8)によるパナマ運河夜間攻撃計画が公表された[28]。この段階では通常攻撃だったが、福永飛行長は「飛行機総特攻の時に晴嵐部隊だけ通常攻撃はありえない。全機特攻」と主張し、投下器から爆弾が落ちないよう工作を命じた[29]。結局、全機800kg爆弾を装備した上での特別攻撃隊となった[13]。 しかし戦局の悪化によりパナマ運河攻撃は中止となり、ウルシー環礁の米軍在泊艦船攻撃に目的変更となる[20][30]。6月25日、小沢治三郎海軍総司令長官は、第六艦隊第一潜水隊(先遣部隊)に以下の作戦を発令した[30][31]。

    トラックに対する高速偵察機「彩雲」輸送 (光作戦) 使用兵力、伊十三、伊十四。 輸送物件、彩雲4機。7月下旬トラック着を目標に行動。 ウルシー奇襲作戦 (嵐作戦) 使用兵力、伊四百、伊四百一、晴嵐6機。 攻撃時期、7月下旬より8月上旬。次期作戦準備としてシンガポールに晴嵐10機を空輸すべし。

    部隊は「神龍特別攻撃隊」と命名された[32][33]。出撃前の壮行会で第六艦隊司令長官醍醐忠重中将は、飛行機搭乗員に短刀を贈っている[33]。この短刀は特別攻撃隊を意味していた[33]。南部(伊四百一潜水艦長)は「有泉司令も私(南部艦長)もこの作戦を特攻であると正式に命じたことはなく、少なくとも私は最後まで生還の手段を講ずるつもりであった。しかし、飛行機搭乗員はどうであったろうか。」と回想している[33]。 また晴嵐には戦時国際法違反を承知で米軍の星マークがつけられ、米軍機と同じ銀色に塗装されていた[34][法令 5]。伊四百搭載晴嵐1号機の高橋は「誰の入れ知恵だかわからなかったが、卑怯で情けない」と評している[34]。7月20日、伊四百と伊四百一は舞鶴を出港し[32][33]、21日[35]もしくは22日に大湊入港[36]。7月23日、大湊を出撃し[35]、8月17日を攻撃予定日として航海を続けた[37]。伊四百一(有泉司令)はマーシャル諸島東を通過する迂回コースをとった[36][38]。 8月14日、伊四百は伊四百一との合流地点に到達したが発見できず、8月15日も待機した[39][40]。一方の伊四百一も僚艦を発見できず、会合地点で待機、8月15日を過ごした[41]。このすれ違いは、有泉司令(伊四百一)が発信した会合地点変更の電信を伊四百が受信せず(南部艦長は伊四百一から電報発信の記憶なし)、伊四百は作戦計画どおりの会合地点に先行していたからであった[40]。 この時点で「神龍特別攻撃隊」は終戦を迎えた[40]。8月16日、第六艦隊司令長官[42]および海上総隊司令長官から作戦中止命令が出る[43]。「晴嵐」が特攻に出撃することはなかった。晴嵐は、エンジン始動状態、翼を折りたたんだまま無人で射出され、洋上廃棄された[44]。伊四百では、3機をわずか10分で組み立てたという[44]。その際に搭乗員のたっての希望により、星マークが塗りつぶされ日の丸が塗装されたとされる。伊四百一では、8月26日に晴嵐・弾薬・秘密書類等を投棄した[45]。有泉司令は艦内で自決した[20]。

    現存する機体

    修復された機体 戦後に愛知県の工廠にあった機体がアメリカ軍に鹵獲され、性能などの調査の上で、スミソニアン博物館に修繕を施された状態で1機が保存されている。

    なお、海軍省では法令上、試製晴嵐を「特殊機(潜水艦用)(AE1P発動機装備/アツタ発動機32型装備)」[法令 6][法令 1]、試製晴嵐改を「試製晴嵐ヲ陸上機トナセルモノ」[法令 1]と明記して周知しており、本機の用途等に関して特に厳しく秘匿していたわけではない。

    大東亜戦争(太平洋戦争)日本の英雄



    11.沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ  県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ 12.中川州男とペリリュー島の戦い〜バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘

    13.硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。





    14.占守島…日本を分断から救った男たち #樋口季一郎日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。 15.妻を後部座席に乗せソ連軍へ特攻〜書評『妻と飛んだ特攻兵』 1. 9軍神 開戦劈頭の大戦果として,特殊潜航艇で真珠湾攻撃

    2.淵田 美津雄 真珠湾奇襲 攻撃隊長

    3.空の神兵(そらのしんぺい)とは、大日本帝国陸軍・海軍の落下傘部隊(空挺部隊・挺進部隊)、落下傘兵

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    5.加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい、)とは、大東亜戦争初期に活躍した加藤建夫陸軍中佐

    6. ラバウル航空隊(ラバウルこうくうたい)とは、第二次世界大戦時、ニューブリテン島(現在のパプアニューギニア)のラバウル基地に集結してこの空域に展開して戦闘に参加した、日本海軍・陸軍の各航空隊(航空部隊)の総称である。

    7.ガダルカナル島撤収作戦(がだるかなるとうてっしゅうさくせん)は第二次世界大戦中に行われた日本軍の撤退作戦。作戦呼称は「ケ号作戦」。由来は捲土重来(けんどちょうらい)による[要出典]。

    8.キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた、日本軍のキスカ島(アメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島内)からの守備隊撤収作戦のことである。

    9.アッツ島玉砕 アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島で、アメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である[1]。

    10.拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。

    9月9日、中華民国総統の蒋介石が、部下将兵に与えた訓示である。これこそは、敵側が如何に拉孟守備隊の勇戦に苦しめられたかを明確に示す証拠であり、蒋介石から拉孟の将兵に手向けた逆感状とも言えるであろう。 「松山陣地(拉孟陣地と同義)は9月7日、我が軍において攻占するところとなり、欣快に堪えず。(中略)戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。(中略)  諸子はビルマの日本軍を模範とせよ。拉孟において、騰越において、ミートキーナにおいて、日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し」

    11.中川州男とペリリュー島の戦い〜バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘

    12.硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。













    拉孟・騰越の戦い(らもう・とうえつのたたかい)は、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で行われた、日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘のことを言う。

    すでに南部を占領していた日本の部隊は援?ルートの遮断のために派遣された小規模なもので、進出した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていたが、援?ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な装備を身につけた中国軍が1944年より反撃に転じ、日本軍は補給路を断たれ孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に玉砕した。硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しいケースとして知られる。しかし、中国軍も陣地に立てこもる日本軍の防御戦闘により部隊比では日本より死傷者を出した。

    経緯

    拉孟、騰越の戦い

    https://blog.goo.ne.jp/kitasan999_555/e/2129583bcd02de72e3d323057bd6974f  民の琴線に触れる戦いがある。特に10倍を超す敵に囲まれ最後の一兵まで戦った場合には、その記憶は千年の時を超す。ユダヤ人は2千年前(紀元70〜73年)のマサダの戦いを、団結の象徴として昨年のことのように話す。

     紀元66年のユダヤ戦争。ローマ帝国からの独立を目指して立ち上がったユダヤ人は、エルサレムで敗れ追い詰められて967人の女子供を含む集団が、急峻なマサダの砦に立て籠もった。1万5千人のローマ軍兵士が砦のある丘を包囲したが、周囲は断崖絶壁で唯一の登攀路を塞がれて手が出せない。そこでローマ軍は2年の歳月をかけて大規模な土木工事を行い、角となる木材と大量の土砂を運んで絶壁の一方向を埋め立てた。古代の土木技術は侮りがたい。ついに絶壁にゆるやかなスロープを作り出した。満を持したローマ軍が砦に突入するが、予想された抵抗はなかった。中にいたユダヤ人は集団自殺を遂げていたのだ。生き残ったのは、穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけだった。

     アメリカ人にとって心を熱くする戦いはアラモ砦の防衛戦だろう。こちらは1836年2/23〜3/6の13日間包囲されたが、総攻撃により一日で砦は陥落し、守備隊は全滅した。砦に籠ったのはテキサス分離独立派、当時のテキサスはメキシコ領だった。トラヴィス隊長のもと、西部で名高いジム・ボウイとデイヴィー・クロケットが参戦し183〜250人の男達が戦った。

     攻めるのはサンタ・アナ率いるメキシコ共和国軍4,5千人だが、総攻撃の時には1,600人で攻め3〜400人のメキシコ兵が戦死した。アラモ砦の犠牲により貴重な時を稼ぎ結束したテキサス独立軍は、「リメンバー・アラモ」を合言葉にメキシコ軍を打ち破りサンタ・アナを捕虜にする。

     日本軍は太平洋の島々や沖縄で米軍と死闘を繰り広げるが、自分の琴線に触れる戦いはビルマと中国雲南省の国境付近で行われた。拉孟(ラモー)・騰越(トウエツ)の戦いには心を揺さぶられる。平静ではいられず、心が高ぶるのだ。拉孟は怒川の西岸、恵通橋を見下ろす海抜2,000mの山上にある廃村を基にした陣地で、周囲を山と渓谷に囲まれ西方のみが龍陵に通じている。四季の変化に富み特に秋は美しい所だそうだ。一方騰越は、最前線の拉孟から北東に60km、平野の中央にある人口4万の城郭都市で、東は山脈を縦走して保山、昆明へと続く。

     日本軍は何故このような山奥に攻め入り、陣地を築いたのか。それは連合軍の援蒋ルートを断つのが目的である。太平洋戦争が始まる前の5年間、日本と中国は激しく戦っていた。個々の会戦では常に日本軍が勝利を収めていたが、倒しても倒しても新手の中国軍が現れる。前線が進むにつれ、占領地である後方の物資集積所、小規模駐屯地、鉄道や輸送隊等が襲撃される。後方の防衛を固めようとすると、守備に限りなく人員が必要になる。前線は先に進み占領地は増え、守備部隊を増やしてもその中で手薄な所や輸送隊が襲われる。日本は徴兵を進めついに100万の兵力を中国に送り込んだ。

     南方へ行き、太平洋戦争で米英蘭軍と戦った日本軍は、中国に張り付いた兵力の1/4〜1/5に過ぎない。日本陸軍は8年間、もしくはそれ以上の期間中国に居続けた。その日本軍と対峙していたのが200万を超す中国軍である。蒋介石を負かせてはならない。100万の戦慣れした日本兵を他の戦場へ向かわせたら恐ろしいことになる。連合軍、特に米国は太平洋戦争以前、ビルマのラングーンに大量の軍需物資を陸揚げしてビルマから中国、雲南省を経由して重慶にいる蒋介石のもとに送った。この援蒋ルートを断ち切るのが日本軍の狙いだった。アメリカは陸路が封鎖された後は、ヒマラヤ超えの危険な空輸で蒋を支えた。今でもヒマラヤ山脈から中国の奥地には、大戦中の大型輸送機の残骸が散らばっているはずだ。

     蒋介石の元にはアメリカから派遣されたジョセフ・スティルウェル大将がいて、米軍の援助物資を装備した中国軍を訓練していた。近代装備を持ち訓練された新編師団(雲南遠征軍)が満を持してビルマに進入してきた。中国人指揮官、衛立煌の率いる20万人で、装備は日本軍よりも遥かに近代的だ。英印軍だけでも手一杯の所に新規の20万とは。最前線基地の拉孟はたちまち包囲された。

     拉孟守備隊は当初2,800名の兵力だったが、指揮官の松山大佐は命を受け、兵を割いて出撃し侵入してきた雲南軍の一部を撃退した。その後松山隊はミイトキーナ南方に降下した英軍空挺部隊の掃討等に転戦し、6月5日騰越に入った。拉孟に残された守備隊は1,280名で、その内300名は負傷兵であった。拉孟を包囲した中国軍は4万8千名で、残りの雲南軍は騰越、龍陵、平戛に向かった。

     1944年6月2日午後、雲南遠征軍の砲撃が始まった。この日から9月7日に陣地が陥落するまでの66日間、拉孟守備隊は攻撃を再三防ぎ、敵二個師団を壊滅させ戦死4千、負傷3,774人の損害を与えた。雲南軍司令官衛立煌大将は、日本軍の強さに舌を巻きこう語った。『火砲の力を入れると、こちらは日本軍の十倍以上の戦力である。それが千五百そこそこの日本軍に軽くあしらわれてしまったのである。何という強い日本兵なのだ。』

     敵将があきれるほどの勇戦を指揮した金光少佐(死後大佐)は小学校しか出ていない。貧農の子で村では神童と言われていたが、一兵卒からたたき上げ伍長、軍曹を経て幹部候補となり将校にまでなった。元が貴族社会の英国ではほぼあり得ない昇進だ。さんざん悪く言われる帝国陸軍だが、このような将校を生みだすところは素敵だ。金光少佐は常に温厚で部下思い、自ら率先して事を成すタイプで、部下からはこの人の下でなら死ねる、と慕われていた。拉孟守備隊は、限られた資材を使って陣地を複合的に設営し、死角を無くしてどこからでも十字砲火を浴びせて敵に出血を強いる構造を効果的に作り上げた。度重なる砲撃による破損は、夜間に不断に補修を行った。

     6/7、雲南軍の攻撃を迎撃し、敵の将軍を戦死させた。6/14、別師団による北方からの攻撃。6/20、敵主力2個連隊が再攻撃、これを粉砕するも砲撃戦で守備隊の弾薬庫が被弾破裂した。これは大きな痛手となった。砲弾が残っていたら、雲南軍の犠牲はもっと大きかったに違いない。6月末、2年前に日本軍の急追を逃れるために自ら爆破した恵通橋を復旧。これにより雲南軍の補給物資がトラック輸送により、陸続と戦場に運び込まれた。

     6/28、日本陸軍機10機飛来、上空より空中補給。その後も度々飛来。7/4〜15、雲南遠征軍第2次総攻撃。ロケット砲と火炎放射器が加わり、守備隊は大きく兵を失った。残存兵力は500を切り、生き残った兵も多くは傷ついていた。守備隊の砲弾は欠乏して撃ち返すことが出来なくなった。天候は雨季に入って壕内は膝までぬかるみと化し、守備兵は脚気とマラリアに苦しめられた。

     守備隊は夜になると数名づつ陣地の前面に出て、雲南軍の死体の山から武器・弾薬・食糧を拾い集めた。ビルマ方面軍は、連合軍によって新たに築かれつつある補給ルートを遮断し、同時に拉孟・騰越守備隊を救援するという「断作戦」を発令した。救援部隊を9月上旬に拉孟に送ると約束し、拉孟守備隊は希望を持ったが、実は最前線の拉孟は最初から見捨てられていた。戦略的にも無意味なインパール作戦によって、虎の子の精強な3個師団と1旅団を失い、日本軍と英印軍の戦力対比が最大1:10となり、制空権も失っていた。本土から派遣されてきた京都の師団は弱兵で役にたたない。かろうじてミートキーナ(現ミッチーナ)から一部の部隊が撤退出来たのが精一杯であった。ミートキーナから退却出来たのは10人に1人に過ぎないが、拉孟と騰越で敵を引きつけて時を稼いでくれたから全滅せずにすんだ。当初ミートキーナにも死守命令が出ていたが、わずかな兵を率いて救援に赴いた水上少将が自決をして名目的に死守命令を守り、部下を撤退させた。

     7/20、第3次総攻撃。この攻撃は昆明から呼び寄せた新しい部隊によって行われ、拉孟陣地には一日当り7〜8,000発の砲爆撃がなされた。攻撃部隊が陣前に肉薄して投げ込む手榴弾を、守兵が拾って投げ返す。陣内に突入してきた敵兵は、得意の白兵戦で刺し殺し殴り殺す。7/25頃には兵力は300名に減少した。砲弾は最後の一発を残して既に無く、歩兵弾薬は欠乏し食糧庫を焼かれ、8月以降は乾パン一袋を2日に食い延ばすようになった。

     7/27、ビルマ方面軍司令官より、拉孟守備隊の勇戦に対し感状が届く。翌日第33軍司令官からも感状。8/2、複数ある陣地のうち、本部陣地が陥落。8/12、挺身破壊班を編成、4名1組の破壊班を7組送り出して雲南軍を奇襲。破壊班は民間人に変装して遠征軍の包囲をすり抜け、火砲5門その他を破壊し、戦利品を持って帰還。損害は戦死2名であった。この攻撃で守備隊の士気はあがった。

     さて拉孟陣地に空輸に来た陸軍機だが、速力の早い一式戦・隼なので狭い陣地にピンポイントで投下するのは困難で、半分は敵の手に渡ってしまった。また地上からの砲火に加え、敵戦闘機が待ち伏せるようになって撃墜される機が出始めた。しかしちぎれんばかりに手を振る守備兵を見たパイロットは、再出撃、再々出撃を進言した。これに対し金光少佐が無線で司令部に告げた。『今日も空投を感謝す。手榴弾100発、小銃弾2,000発受領。将兵は1発1発の手榴弾に合掌して感謝し、攻め寄せる敵を粉砕しあり。』『我が飛行隊が勇敢なる低空飛行を実施し、これが為敵火を被るは、守備将兵の真に心痛に堪えざるところなり。余り無理なきようお願いす。』それを聞いた隼隊は出撃を志願したが、7月中旬になると陣地はさらに小さくなり、手を振る守備兵は負傷して包帯を巻いた負傷兵ばかりで、投下しても陣地内の日本兵にはほとんど渡らなかった。実際最後の数百名は、片手片足、失明した兵が幽鬼のように敵に立ち向かっていた。

     雲南軍は、これまでの中国戦線の中国軍とは思えないほど勇敢に戦った。殺すのを一瞬ためらう程の少年兵が多かったという。しかし初陣の彼らは真っ正直に正面から戦い過ぎた。老練な日本軍の仕掛けたトラップに嵌り、犠牲を重ねた。日本軍にとっては、効果的に限られた武器で最大の効果をあげたと言える。中国軍は何度か降伏勧告を行ったが、鼻で笑われてしまった。

     8月中下旬の雲南軍の攻撃は中央付近の関山陣地に集中し、地上攻撃と併せて陣地直下まで掘り進んだ坑道による地中3ヶ所からの爆破により、8/19ついに陣地を奪われた。しかし8/20夜間、なけなしの兵を集めて夜襲を敢行して奪還。翌日再び奪取されるも8/22未明、逆襲して再奪取。しかし兵力が尽き、確保を続けることは出来なかった。

     9/5、決別電報を打ち、無線機を破壊し重要書類を焼却。9/6、金光少佐戦死。迫撃砲弾により腹部と大腿部を粉砕されていた。金光隊長は真鍋副官に後事を託しつぶやいた。『皆、よくやってくれた---』享年48歳。翌9/7未明、真鍋大尉、砲兵掩蓋内にて軍旗奉焼。早朝より激しい集中砲火を受け松山陣地陥落。午後真鍋大尉敵中に切り込み戦死(死後、少佐に進級)。18時全ての陣地が陥落し戦闘終結。突然戦場に静寂が広がった。

     真鍋大尉の命を受け、中尉ら数名が脱出し地元民に変装して戦線を突破し、日本軍の司令部に辿りついた。将校の生還者がいたことで、拉孟守備隊の最期の様子は比較的よく分かっている。騰越では一人の生存者もいない為、戦闘の詳細が今一つ不明である。

     拉孟守備隊の陥落した陣地跡に自決した15名の日本人慰安婦が横たわっていた。5名の朝鮮人慰安婦は雲南軍に投降した。降り注ぐ砲弾の雨の中で、守備隊が一番安全な場所に女達を匿っていたことが伺える。また最期の時に日本人慰安婦のお姉さんが、朝鮮人の女の子に降伏を勧めたのだろう。雲南軍は女がこの激戦の戦場にいたことに驚き、従軍看護婦として丁重に埋葬した。

     拉孟には軍属によって酒保(売店)と慰安所が出来ていた。女達は攻撃が近づいた時に引き上げることも出来たのだが、何故か残留を望んだ。長い間暮らしを共にした兵隊と女達の間には、家族愛のような絆が生まれていた。戦闘の最中に、一人の兵隊がなじみの女との結婚を申し出て許可された、という話しがある。しかし勇者として名誉の戦死を遂げた兵士に較べ、名もなく闇に葬られた死を遂げた女達があわれだ。彼女達も共に戦い、弾丸を運び炊事に従事し傷ついた兵を手当てし看護し、勇敢に死を選んだのに。  金光隊長が9/5、師団司令部に送った決別電文は以下の通り。

    『通信の途絶を顧慮して、予め状況を申し上げたし。---周囲の状況急迫し此までの戦況報告の如く全員弾薬食糧欠乏し。如何とも致し難く最後の時迫る。将兵一同死生を超越し命令を厳守確行、全力を揮ってよく勇戦し死守敢闘せるも、小官の指揮拙劣と無力の為御期待に沿うまで死守し得ず。まことに申し訳なし。謹みて聖寿の無窮、皇運の隆昌と兵団長閣下はじめ御一同の御武運長久を祈る。』

     騰越は城郭都市で、城壁は周囲4km正方形で高さ5m、幅2m、外側は石で内側は積土で固められていた。周囲の高地からは見下ろす位置にあるため、これらの高地も防衛する必要があったが、それには最低でも3個連隊、7千名の兵が必要だ。騰越守備隊長は水上少将であったが、少将はミイトキーナ救援に向かったので、蔵重大佐以下2,800名が雲南軍49,600名を迎えうった。守備隊は全滅、雲南軍は戦死9,168名、負傷10,200名の損害を出した。

     戦闘が始まる直前、師団司令部から1大隊の抽出を命ぜられた。そのため実際に騰越で戦ったのは2,800名ではなく2,025名であった。6/27、雲南遠征軍の砲撃開始。7/27、外郭陣地を放棄し城内に後退。8/13早朝、戦爆連合の24機が騰越城を空爆、その一弾が防空壕を直撃して蔵重大佐以下32名が戦死。以後太田大尉(28歳)が指揮をとった。この時点で守備兵は800名になっていた。連合軍の空爆は激しかった。  しかし騰越守備隊の凄まじい抵抗はむしろここから始まる。組織的防戦から死に物狂いの抵抗へ。空爆で崩れた城壁からなだれ込んできた5千を超す雲南軍と壮絶な市街戦を繰り広げる。昼間奪われた地域は夜襲で奪い返す。8/21、残存640名。9/1〜5、残存350以下。9/7、追い詰められた守備隊は太田大尉以下70名。9/11、守備隊の弾薬、手榴弾が尽きる。9/12、最後の無電。

    9/13、太田大尉の指揮下、生き残った数十名が軍刀と銃剣により敵陣地に突入して全員戦死。太田大尉の決別電は以下の通り。

     『現状ヨリスルニ、一週間以内ノ持久ハ困難ナルヲ以テ、兵団ノ状況ニ依リテハ、十三日、連隊長ノ命日ヲ期シ、最後ノ突撃ヲ敢行シ、怒江作戦以来ノ鬱憤ヲ晴ラシ、武人ノ最後ヲ飾ラントス。敵火砲ノ絶対火制下ニアリテ、敵ノ傍若無人ヲ甘受スルニ忍ビズ、将兵ノ心情ヲ諒トセラレタシ。』



     9月9日、敵将蒋介石は、雲南軍司令部に与えた訓示の中で次のように述べた。

     『戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。我が将校以下は、日本軍の拉孟守備隊、騰越守備隊あるいはミートキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命令を全うしある現状を範とすべし。日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し。』

     これが有名な蒋介石の逆感状である。日本軍の出す美辞麗句を並べた陳腐な感状に較べ、敵から範とすべしと言わしめたのだ。これ程価値のある(逆)感状はない。蒋介石は毀誉褒貶の多い人物だが、敵の勇気に感動する度量のある人だった。このことだけでも結構好きだな。拉孟・騰越の勇者がもし生きていてこのことを聞いたなら、一番うれしい一言だったに違いない。







     もう一つは、9月9日、中華民国総統の蒋介石が、部下将兵に与えた訓示である。これこそは、敵側が如何に拉孟守備隊の勇戦に苦しめられたかを明確に示す証拠であり、蒋介石から拉孟の将兵に手向けた逆感状とも言えるであろう。

    「松山陣地(拉孟陣地と同義)は9月7日、我が軍において攻占するところとなり、欣快に堪えず。(中略)戦局の全般は我に有利に進展しつつあるも、前途なお遼遠なり。(中略)

     諸子はビルマの日本軍を模範とせよ。拉孟において、騰越において、ミートキーナにおいて、日本軍の発揚せる忠勇と猛闘を省みれば、我が軍の及ばざること甚だ遠し」



    11.中川州男とペリリュー島の戦い〜バンザイ突撃の禁止、 相次ぐ御嘉賞と将兵の奮闘

    https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7798 Twitter シェア LINEで送る linkedin 2020年07月27日 公開 2020年08月05日 更新

    早坂隆(ノンフィクション作家) ペリリュー島に残る大砲 南洋の島、ペリリュー島。

    約1万の日本軍守備隊に対し、米軍の総兵力はおよそ4万2千人。 その中核は、米軍最強と謳われた第一海兵師団である。

    彼我の戦力差は明らかであったが、日本軍は島じゅうに張り巡らせた地下壕を駆使し、徹底抗戦を試みる。 驚異的な奮闘を指揮したのが、中川州男(なかがわくにお)大佐であった。

    ※本稿は、歴史街道編集部編『太平洋戦争の名将たち』より、一部を抜粋編集したものです。



    パラオの発展に尽力した日本

    西太平洋上に位置するパラオ共和国は、珊瑚礁に囲まれた美しい島嶼国家である。しかし、この「楽園」のような小さな島々にも苦渋の歴史がある。19世紀後半以降、パラオはスペインとドイツに相次いで植民地とされ、島民たちは搾取と愚民化政策の対象とされた。

    転機となったのは第一次世界大戦後である。大正9年(1920)、国際連盟の正式な決定によって、パラオは日本の委任統治領となった。以降、日本はインフラ整備や産業振興、学校制度の導入など、様々な政策を実行。その結果、島民の生活レベルや識字率は大きく向上した。

    しかし、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、パラオは米軍の標的となった。フィリピン方面への攻撃拠点を求める米軍にとって、パラオ南端のペリリュー島にある大規模な飛行場は格好の存在であった。昭和19年(1944)、米軍はペリリュー島への上陸計画を策定した。

    これに対して日本軍は、ペリリュー島におけるそれまでの防備を根本から見直し、強力な迎撃態勢の構築を急いだ。

    その指揮をとった現地司令官が、歩兵第二連隊長・中川州男大佐である。

    中川は明治31年(1898)1月23日、熊本県の玉名郡で生まれた。一家は累代の熊本藩士という由緒ある家系だったが、明治になって武士の時代が終焉するとその生活は一変。中川の祖父や父は、学校や塾で国学や漢学などを教える教育者に転じた。ちなみに中川の父親である文次郎は、西郷隆盛率いる薩摩軍と共に戦った熊本隊の一員として西南戦争に参戦し、新政府軍と干戈を交えた経歴を持つ。文次郎はこの戦闘に敗れた後に、教育を生業とする道を歩むようになった。

    そんな家風の影響であろう、中川の二人の兄も教育畑へと進んでいる。すなわち、中川家とは筋金入りの「教育一家」であった。中川も世が世なら素晴らしい教育者になったのではないか。

    そのような環境で生まれ育った中川は、文武両道を地で行くような青年となった。口数は少ないが正義感が強く、純粋な性格であったと伝わる。地元の名門・玉名中学校(現・熊本県立玉名高等学校)に進学した中川は剣道部に所属し、多くの学友たちと共に汗を流した。学科では漢学が得意であったという。

    そんな中川が卒業後に選んだのは、教師ではなく陸軍将校への道であった。成績優秀だった中川は、「陸軍を担う将校」を育成するための専門機関である陸軍士官学校に合格。熊本を出て上京し、同校で学ぶことになった。時は第一次世界大戦下であり、日本も国防の重要性が改めて意識された時期であった。また、元藩士といえども当時の中川家は経済的に困窮しており、そんな家族の生活を憂う心境もあって、学費のかからない同校に進んだとも言われている。同校では軍事学はもちろん、幅広い高等教育が実施された。

    大正7年(1918)、同校を卒業した中川は、福岡県久留米市の歩兵第四十八連隊で本格的な軍隊生活に入った。大いなる希望を持って入営した中川であったが、その後は学校の配属将校といった「閑職」に回された時期も長かった。エリート校である陸軍士官学校の卒業者とは言え、中川の軍人人生は順風満帆だったわけではない。

    そんな中川の生涯において大きな分岐点となったのが日中戦争(支那事変)であった。中川は第二十師団歩兵第七十九連隊の大隊長として華北戦線に出征。この時の一連の戦闘において中川は冷静かつ巧みな指導力を発揮し、上層部から高い評価を得た。その結果、中川は連隊長の推薦によって、陸軍大学校専科への進学を許されたのである。

    こうした経歴を見ると、中川という軍人は「挫折を知る」「現場からのたたき上げ」であったと言える。 陸大専科で学んだ中川はその後、独立混成第五旅団参謀などを経て、栄職である歩兵第二連隊長を拝命。茨城県の水戸を編成地とする同連隊は当時、「陸軍の精鋭」と呼ばれた部隊であった。

    同連隊は満洲北端の嫩江(のんこう)に「対ソ戦の備え」として駐屯していた。中川も嫩江で一年ほど過ごしたが、昭和19年(1944)3月、南方への転出が決まった。悪化の一途を辿る太平洋戦線において、米軍と雌雄を決するためである。日本軍は虎の子の「切り札」を、満洲から太平洋へ振り分けたことになる。

    中川は「二度と戻れない」という覚悟をもって、南洋へと向かった。 歩兵第二連隊の行き先は、パラオ・ペリリュー島であった。

    11.硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい[注 1]、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 栗林忠道陸軍中将

    1945年3月26日)は、第二次世界大戦末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。

    概要

    硫黄島遠景(2007年)。

    『硫黄島の星条旗』をかたどった合衆国海兵隊戦争記念碑 1944年8月時点での連合軍の戦略では、日本本土侵攻の準備段階として台湾に進攻する計画であった[10]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については「コーズウェイ作戦」 (土手道作戦) としてに具体的な検討が進められたが、その後に陸海軍内で議論があり、1944年10月にはアメリカ統合参謀本部が台湾攻略の計画を放棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定された[11]。作戦名は「デタッチメント作戦(分断作戦)」と名付けられたが、のちに「海兵隊史上最も野蛮で高価な戦い」と呼ばれることにもなった[12]。

    作戦は、ダグラス・マッカーサーによるレイテ島の戦いやルソン島の戦いが計画より遅延したことで2回の延期を経て[13]、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機と艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍中将(戦死認定後陸軍大将)を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。アメリカ軍の当初の計画では硫黄島を5日で攻略する予定であったが、最終的に1ヶ月以上を要することとなり、アメリカ軍の作戦計画を大きく狂わせることとなっ



    自決前、大田中将が海軍次官にあてた電文(全文) 知る戦争 2021年8月11日 12時00分 Facebookでシェアする Twitterでシェアする list noteで書く はてなブックマークでシェアする メールでシェアする 印刷する 写真・図版 沖縄の海軍司令官だった大田実氏(中央)一家の家族写真=板垣愛子さん提供 [PR]  76年前の1945年6月、沖縄の地下に掘られた洞穴で、一人の軍人が自ら命を絶ちました。海軍司令官の大田実海軍中将。自決直前に海軍次官にあてた電文では、沖縄戦の惨状と沖縄県民の献身をつづり、「後世特別の配慮を」と訴えました。 大田司令官の自死「貧困のどん底」 海を渡った娘の願い 大田実司令官が出した電文 (旧海軍司令部壕ホームページより) 《原文》 062016番電  発 沖縄根拠地隊司令官  宛 海軍次官  左ノ電■■次官ニ御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし)  沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク 三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之(これ)ニ代ツテ緊急御通知申上グ  沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ 殆(ほとん)ド 顧(かえり)ミルニ 暇(いとま)ナカリキ  然(しか)レドモ本職ノ知レル範囲ニ於(おい)テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅(わずか)ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支(さしつかえ)ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚砲爆撃下■■■風雨ニ曝(さら)サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ  而(しか)モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊(ほうすい)婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身(ていしん)斬込隊スラ申出ルモノアリ  所詮(しょせん) 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ  看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ■■ 真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ  更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終止一貫  勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ■■ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管(ひたすら)日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■  一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂(い)フ 沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ  県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ (■は判読できず) 《現代語訳》 昭和20年6月6日 20時16分  次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。  沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。  沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。  しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。  看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。  これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。  沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。  沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。 大田司令官の自死「貧困のどん底」 海を渡った娘の願い      ◇  おおた・みのる 1891年、千葉県生まれ。海軍の中でも 1945年、占守島…日本を分断から救った男たち #樋口季一郎 https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2637 Twitter シェア LINEで送る linkedin 2015年11月25日 公開 2022年08月25日 更新 早坂隆(ノンフィクション作家) 占守島 終戦後の「忘れられた戦い」  日本は昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。一方、大東亜戦争(太平洋戦争)における「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。  しかし、「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、紛れもない日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、知る人が少ないように思えます。日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきたソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。  かく言う私も、占守島の戦いについてある程度の知識はあったものの、「どのような戦いだったか」「どんな意義があったのか」を詳しく知ったのはここ数年のことです。関心を抱いたきっかけは、樋口季一郎中将でした。  樋口は昭和13年(1938)、杉原千畝よりも前にナチスからユダヤ人を救った人物で、占守島の戦いでは北方を守る第五方面軍の司令官としてソ連軍への反撃を命じました。そんな樋口の手記を入口に、私は占守島の戦いについて調べ始めたのです。 運命の、昭和20年8月17日深夜  最も印象的なのが、樋口の孫・隆一さんから伺った逸話です。隆一さんは、季一郎から次のような話を聞かされたと教えてくれました。  「日本の歴史家は、あの戦争の負け戦ばかりを伝えている。しかし、中には占守島の戦いのような勝ち戦もあったし、だからこそ今の日本の秩序や形が守られている。  負け戦を語ることも大事だが、その一方で、重要な勝ち戦があったことについても、しっかりと語り継いでほしい……」  自らの功を、公に喋るような人物では断じてない。取材を通じて樋口に抱いた印象です。そんな樋口が、占守島の戦いを「語り継いでほしい」と漏らしたのは、なぜなのか。樋口の胸の裡は、あの戦いの「意義」を知ればおのずと見えてきます。  占守島は今もなお、ロシアに実効支配されており、その存在すら学校の授業でも教えられることはありません。  占守島は千島列島の北東端に位置し、戦争当時は日本の領土でした。なお、国際法上、占守島だけでなく全千島列島と、南樺太も日本領として認められていました。  昭和20年当時、日本の北東の国境の最前線にあたる占守島には、約8,000の日本陸海軍将兵がいたとされます。ソ連と国境を接していますが、「日ソ中立条約」を結んでいたため、あくまでもアメリカ軍への備えです。  しかし――8月17日深夜、占守島に攻め込んできたのは、相互不可侵を約していたはずのソ連軍でした。ソ連は中立条約を一方的に破棄するという明らかな国際法違反を犯し、日本を「騙し討ち」したのです。  ソ連軍は8月9日にすでに満洲に侵攻していましたが、そこで行なわれたのは戦闘行為ですらありません。殺人、略奪、家屋侵入、そして強姦……。彼らは同じような手法で、千島列島の他、南樺太までも攻略しようと企みました。 北海道までを狙うソ連の野望  発端は、同年2月のヤルタ密約にまで遡ります。アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンが会談を行ない、ソ連が対日参戦を条件に千島列島や南樺太を獲得することを秘密協定で認めたのです。  しかし、スターリンはやがて、北海道の北半分の領有までも主張し始めました。対するアメリカはこれを拒否。後の冷戦構造の萌芽ですが、遺憾にも真っ先に巻き込まれたのが日本でした。  ソ連は終戦近しと見るや、千島列島や南樺太への侵攻を開始。どさくさに紛れて日本領を少しでも掠め取ろうとしたのです。あのスターリンならば、千島列島、北海道を獲った後、勢いに乗じて本州の東北地方の占領までをも窺ったであろうことは想像に難くありません。  結果、日本は戦後のドイツや朝鮮半島と同じような分断国家になっていたかもしれないのです。なお、日本側は当初、そんなソ連に和平の仲介役を期待していました。そんな史実も、あの戦争の一側面として知っておくべきでしょう。  陸軍きってのロシア通だった樋口は、「ソ連軍、来襲」の報に接した瞬間、ソ連の野望と日本が直面した未曾有の危機を鋭敏に察しました。戦後、樋口が「占守島の戦いが今の日本の秩序や形を守った」と指摘したのはそのためです。  樋口は誰よりも占守島の戦いの意義を知るからこそ、占守島で敢然と起ち上がり、肉弾と散った部下たちの姿を後世の日本人にも知って欲しいという「本音」を孫の隆一さんに語ったのでしょう。 次のページ 故郷に帰る夢を脇に置いて > ← 1 2 3 → 妻を後部座席に乗せソ連軍へ特攻〜書評『妻と飛んだ特攻兵』に涙 2022/08/18 https://bushoojapan.com/historybook/2022/08/18/3604 日本初の歴史戦国ポータルサイト BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) 8月15日は終戦記念日。 その終戦から4日後の8月19日、戦闘機でソ連軍に特攻した夫婦がいました。 戦闘機に、ワンピースの黒髪の女性が乗っているという「絵」はジブリ映画にでもありそうですが、これが本当に起きた史実だったのです。 ノンフィクション作家の豊田正義氏が刊行した『妻と飛んだ特攻兵(→amazon)』で初めて明らかにされました。 後にドラマ放送もされ、成宮寛貴さんと堀北真希さんが演じられておりましたが、一体どんな史実だったのか。 書評を兼ねて確認してみたいと思います。 ※ドラマはAmazonプライム・ビデオで視聴できます(→amazon) お好きな項目に飛べる目次 [とじる] 1ページ目 艶やかな光を湛えて風になびく黒髪が 元会津藩士の子孫と北海道出身の少尉 2ページ目 ソ連の虐殺に耐えかね特攻を決意する 艶やかな光を湛えて風になびく黒髪が ときは昭和20年8月19日――。 満州の飛行場を11機の九七式戦闘機(を改造した訓練機)が飛ぼうとしていました。 この時点日本はすでに降伏しています。 ソ連に対して飛行機を受け渡すためのフライトでした。 11人の操縦士を見守る多くの日本人。 操縦士の近くには、その家族でしょうか。 白いワンピースに日傘を差した2人の女性がいました。 誰もが見送りと思ったその女性たちは、自分の夫の飛行機の後部座席に乗り込むのです(一人は愛人でした)。 11人は、命令に反し、満州で日本人の虐殺を続けるソ連軍に一矢報いるため、特攻を密かに計画していたのです。 夫の覚悟についていこうと決めた2人の若い女性。 女性を乗せた2機が滑走路を走り出したとき、群衆たちはようやく異変に気付きました。 「艶やかな光を湛えて風になびく黒髪が目撃されたのだ」(306頁) 元会津藩士の子孫と北海道出身の少尉 「神州不滅特攻隊」を名乗った11人(+2人)は、 「戦い得ずして戦わざる空の勇士十一名 生きて捕虜の汚辱を受けるを忍び難し」 との遺書を残していました。 九七式戦闘機/wikipediaより引用 10機(1機は離陸直後にエンジン不調で墜落)の行方は分かりません。 特攻が成功したのか否か。 それは歴史の闇に消えました。 戦後、関係者の間で、「女性を特攻機に乗せた」ことが軍規違反とされ、彼らが「英霊」から外されたり、その後、仲間たちが名誉回復をしたりと、元軍関係者の間では密かに知られておりましたが、世間に出されるのは本書が初めてとのことです。 ひと組は夫婦で、青森出身の谷藤徹夫・朝子夫妻。 谷藤家は、元会津藩士の子孫(戊辰戦争後に下北半島に移住した末裔)だそうです。 斗南藩 斗南藩の生き地獄〜元会津藩士が追いやられた御家復興という名の流刑 続きを見る もうひと組は、北海道出身の少尉と現地で恋愛関係にあった宿の女中さんでした。 惜しいのは、取材に応じたのが11人のうち「谷藤家」関係者だけだったことです。 ※続きは【次のページへ】をclick! 大東亜戦争は日本が勝った -英国人ジャーナリスト ヘンリー・ストークスが語る「世界史の中の日本」 単行本 - 2017/4/17 ヘンリー・S・ストークス (著), 藤田 裕行 (翻訳)

    5つ星のうち4.5 128個の評価 単行本 ¥1,760 獲得ポイント: 80pt ¥250 より 38 中古品¥1,760 より 29 新品¥3,520 より 1 コレクター商品 普及版 大東亜戦争は日本が勝った ¥1,320 (128) 残り12点(入荷予定あり) ________________________________________



    「太平洋戦争」はアメリカの洗脳だった この書は日本のプロパガンダではない。史実である。

    日本よ 呪縛から解放されよ! ヘンリー・S・ストークス 来日50年の総集編

    世界史を俯瞰して明らかになった 大東亜戦争の真実

    共産党などの左翼は、大東亜戦争は「侵略戦争」であったと言う。

    そうであろうか? 史実を検証すると、そこには明らかに「アジア解放戦争」の側面が見て取れる。 アメリカの侵略戦争や、大英帝国の植民地支配での戦争とは、明らかに違った姿を現じている。 私は、大東亜戦争を日本がなぜ戦ったのか、その結果、何が世界に起こったのかは、 世界文明史的な俯瞰をもってしてはじめて、明らかになるものだと、そう思い始めた。

    世界文明史の中で、大東亜戦争を位置づけようというような野心的な試みは、一冊の本で果たせるものでもないが、

    その第一歩を英国人ジャーナリストの私が切り開くことで、世界中に多くの賛同者が出てくると、 そう確信している。(本文より)

    1章 日本が戦ったのは「太平洋戦争」ではない!

    2章 「太平洋戦争」史観で洗脳される日本

    3章 日本は「和」の国である

    4章 世界に冠たる日本の歴史

    5章 オリエントにあった世界の文明と帝国

    6章 侵略され侵略するイギリスの歴史

    7章 アメリカの「マニフェスト・デスティニー」

    8章 白人キリスト教徒による太平洋侵略

    9章 マッカーサー親子によるフィリピン侵略

    10章 大日本帝国と西欧列強の帝国主義の違い

    11章 大日本帝国は「植民地支配」などしていない!

    12章 日本は中国を侵略していない

    13章 アメリカによる先制攻撃の「共同謀議」

    14章 大統領がアメリカ国民を欺いた日

    15章 大英帝国を滅ぼしたのは日本だった!





    「世界から恐れられた7人の日本人」上巻

    世界世界 せ ※下巻は、上巻購入後、次のページでご案内しております

    1人目:日本軍 20 万に匹敵する男    −明石元二郎陸軍大佐

    ○帝政ロシアを揺るがし、 日露戦争を勝利へ導く

    ○明石を支援した日本陸軍のスパイマスターたち

    ○ジェームス・ボンドも明石の味方に! ?


    2人目:米国務長官が欲しがった男     ―岩畔豪雄陸軍少将

    ○「世界基準の戦い方」をプランニングし、遂行する
    ○アメリカとの戦争回避に奔走
    ○インドの独立運動にも大きく貢献


    3人目:日本のスパイマスタ―    ―秋草俊陸軍少将
    ○インテリジェンス教育の総本山「中野学校」を創設
    ○猛者ぞろいの中野学校出身者
    ○謀略から特攻まで、 ただ目標完遂のために


    4人目:インドを独立に導いた謀略の素人    ―藤原岩市陸軍少佐
    ○5万ものインド人捕虜の心を一瞬にしてつかむ
    ○曲解され悪魔化される日本のナショナリストたち
    5人目:日本版アラビアのロレンス    ― 鈴木敬司陸軍大佐 


    ○親日ミャンマーの原点は鈴木大佐にあり
    ○「アジアはアジア人の手に」を願い共に戦った野田毅陸軍大尉
    ○日本が掲げた理想、そして誠の心がアジア諸国を動かした
    6人目:アメリカ軍の動きを的確に予測した情報のプロ    ―堀栄三陸軍少佐


    ○株価の動きでアメリカ軍の動きを予測
    ○その情報は、 陸軍大本営の参謀によって握りつぶされた
    ○米軍戦法の研究書を執筆し、日本軍の戦いに貢献
    ○アメリカ軍を壊滅状態に追い込んだ堀の教え
    7人目:MI5が徹底監視した唯一の日本人    ―小野寺信陸軍少将


    ○各国のスパイマスターたちに引けを取らない諜報力
    ○握りつぶされた「ヤルタ会談の密約」情報
    世界を変えてきた比類なき日本のインテリジェンス


    あとがき:ウィズコロナ時代だからこそ、先人のインテリジェンスに学べ
    著者プロフィール




    大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)


    大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亞共同宣言)は、1943年(昭和18年)11月6日に大東亜会議にて採択された共同宣言。大東亜宣言とも。

    概要

    東京・帝国議事堂で同年11月に開催されたアジア地域の首脳会議の2日目に満場一致で採択された。採択後にビルマ国代表のバー・モウ内閣総理大臣が「自由インドなければ自由アジアなし」とインド独立を支持する意見を述べ、陪席者(オブザーバー)として出席した自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が自由インドの確立を表明した[1]。次いで日本の東條英機内閣総理大臣が自由インドへの強い支援を会議で表明、大東亜会議は閉会した。

    参加国

    日本 : 東條英機内閣総理大臣、外務省・大東亜省などの各大臣、総裁、書記官など

    中国 : 汪兆銘国民政府行政院長、行政院副院長、外交部部長など

    タイ : ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)、外務省など

    満洲 : 張景恵国務総理大臣、外交部大臣、特命全権大使など。

    フィリピン : ホセ・ラウレル大統領、外務大臣、大統領秘書など

    ビルマ : バー・モウ内閣総理大臣、特命全権大使、外務次官など

    インド:チャンドラ・ボース(首班)、最高司令部参謀長など

    宣言全文

    原文

    大東亞共同宣言

    抑?世界各國ガ各其ノ所??ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平??和確立ノ根本要義ナリ 然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽??クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望??ヲ逞ウシ遂??ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス 大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂??シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平??和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

    一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道??義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

    一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊??重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

    一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊??重シ各民族ノ創造??性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

    一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ攝i??ス

    一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進??ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進??運??ニ貢獻ス

    口語訳

    そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本です。

    しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。

    大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。

    大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

    大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

    大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。

    大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。

    大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。

    作成の経緯

    本文の5項目に関しては、1943年(昭和18年)8月初旬には外務省内「戦争目的研究会」で大西洋憲章(1941年)なども大いに参考にするかたちで文案作成がはじまり、同10月には完成したものとみられる[2]。これと別途並行して大東亜省は大川周明[3][4]や矢部貞治に宣言案を作成させており、それは前文として追加されることになった。大西洋憲章を参考にした本文が普遍的な真理を提唱するのに対し、大東亜省の前文は「米英支配の打破」という時事的な記述に偏っており、論理の接続が悪い所以とされる。

    日本を除く大東亜会議参加国は、会議2週間前になりようやく意見聴取の場を得たが、修正意見は日本側にことごとく拒絶され、結局一字一句の変更もなされずこの文面のまま全会一致で採択された。